壮大で謎に満ちた古代エジプト神話。数多くの神々が登場しますが、その全ての始まりに存在する「原初の神」についてはご存知でしょうか。それは、万物が生まれる以前の混沌とした水、「ヌン」と呼ばれる存在です。この記事では、エジプト神話の根源を解き明かす鍵となるヌンの正体、そしてヌンからどのようにして世界や神々が生まれたのかを、神話の記述に基づいて詳しく解説していきます。この記事を読めば、古代エジプト人が抱いていた壮大な宇宙観の核心に触れることができるでしょう。
この記事を読むことでわかること
- 原初の神ヌンがどのような存在として考えられていたか
- エジプト神話における天地創造の具体的な物語
- ヌンと太陽神ラーをはじめとする他の主要な神々との関係性
- 古代エジプト人の宇宙観や死生観にヌンが与えた影響
ヌンとは何者か?エジプト神話における原初の存在
古代エジプトの神話を理解する上で欠かせないのが、全ての源とされるヌンの存在です。しかし、ヌンは他の神々とは少し異なる、非常に概念的な存在として描かれています。ここでは、ヌンの本質に迫っていきます。
混沌の海としての「ヌン」
ヌンは、天地創造以前の世界に存在した、無限に広がる原初の水を指します。これは単なる水ではなく、「無秩序」「無限」「深淵」「闇」といった、形あるものが生まれる前の混沌とした状態そのものを象徴しています。神々や人間、世界を構成する全ての要素は、このヌンから生まれたとされています。そのため、ヌンは特定の姿を持つ人格神として描かれることは少なく、むしろ万物を内包する「場」や「状態」として捉えるのが適切です。古代エジプト人は、この静かで巨大な水の中から生命が誕生したと考えていました。
創造の可能性を秘めた源
ヌンは単なる「無」ではありませんでした。それは、あらゆる創造の可能性を秘めた、生命の源泉でもあったのです。秩序が生まれる前の混沌ですが、その中には生命の種子が満ちていると考えられていました。この混沌の中から、やがて世界の秩序を司る最初の神が誕生します。つまり、ヌンはエジプト神話における全ての物語が始まる、いわば壮大な舞台装置であり、全てのエネルギーの源泉であったと言えるでしょう。
ヘルモポリス神話とオグドアド
古代エジプトの都市ヘルモポリスで編纂された創世神話では、ヌンは世界の創造に関わった八柱の神々「オグドアド」の一員として数えられています。ここでは、ヌン(原初の水)は女性形のナウネトと共に一対の神とされ、他にもフフとハウヘト(無限)、ククとカウケト(闇)、アメンとアマウネト(隠れたもの)という四対の神々が、創造以前の世界を構成していたと説明されます。彼らの力が結集し、やがて世界が誕生するきっかけとなったのです。この神話体系において、ヌンはより具体的な創造の役割を担う存在として位置づけられています。
ヌンから始まるエジプトの天地創造物語
混沌の海ヌンから、どのようにして神々と世界が生まれたのでしょうか。古代エジプトにはいくつかの創世神話が存在しますが、ここでは最も一般的とされるヘリオポリス神話を中心に、天地創造のプロセスを解説します。
原初の丘「ベンベン」の出現
果てしなく広がるヌンの水面から、ある時、最初の陸地が盛り上がってきます。これが「原初の丘(ベンベン)」です。ナイル川が氾濫した後に水が引き、肥沃な土壌が現れる様子から着想を得たと考えられています。この原初の丘は、生命が誕生する最初の聖なる場所であり、混沌の中に生まれた最初の「秩序」の象Gでした。後の時代、エジプトのピラミッドやオベリスクの頂上部分は、このベンベンを模して作られたとされています。
創造神アトゥムの誕生と神々の創造
原初の丘ベンベンの上に、自らの意志で最初に誕生したのが創造神アトゥムです。アトゥムはヌンの中から独力で生まれ、世界の創造を開始します。アトゥムは自慰行為によって、最初の子である大気の神シューと、湿気の女神テフヌトを生み出しました。続いて、シューとテフヌトから大地の神ゲブと天空の女神ヌトが生まれます。ゲブとヌトが引き離されることで天と地が分かれ、私たちが知る世界が形成されたのです。このように、ヌンから生まれたアトゥムを起点として、エジプトの主要な神々が次々と誕生していきました。
太陽神ラーとヌンの深い関係
エジプト神話において絶大な力を持つ太陽神ラーもまた、ヌンと密接な関係にあります。一説では、ラーはヌンから生まれたとされています。さらに重要なのが、太陽の運行におけるヌンの役割です。古代エジプト人は、太陽は夜になると西の地平線に沈み、「太陽の船」に乗って夜の世界(冥界)を旅すると考えていました。この夜の世界は、原初の海ヌンと同一視されることもありました。太陽神ラーは、夜の間にヌンの水を航行し、その中で若返りの力を得て、毎朝新たに東の空から再生すると信じられていたのです。ヌンは世界の始まりだけでなく、日々のサイクルの再生の場でもありました。
古代エジプトの世界観に根付くヌンの思想
ヌンの概念は、単なる創世神話にとどまらず、古代エジプト人の世界観、宗教観、そして建築思想にまで深く浸透していました。ここでは、ヌンがエジプト文明全体に与えた影響について見ていきましょう。
神殿建築に込められた宇宙観
エジプト各地に建設された壮大な神殿は、エジプトの宇宙観そのものを体現したものでした。神殿の床は徐々に高くなっており、最も奥にある至聖所が、最初にヌンから現れた原初の丘ベンベンを象徴しています。また、多くの神殿には「聖なる池」が設けられていましたが、これはまさしく原初の海ヌンを表しています。神官たちはこの池で身を清めることで、創造の源であるヌンの力に触れ、儀式に臨んだのです。このように、人々は神殿を訪れることで、天地創造の物語を追体験していました。
死生観における再生の場としてのヌン
ヌンは、古代エジプト人の死生観にも大きな役割を果たしました。死者は、死後、オシリス神が統治する冥界(ドゥアト)を旅すると考えられていました。この旅は困難に満ちていますが、それを乗り越えた魂は、最終的に太陽神ラーと共に太陽の船に乗り、原初の海ヌンを航行することで再生を遂げると信じられていました。ヌンは世界の終わり、つまり死の世界であると同時に、新たな生命が生まれる再生の場でもあったのです。この循環思想は、エジプト文明の根幹をなす重要な考え方でした。
他の神話の混沌との比較
世界の多くの創世神話には、エジプトのヌンに似た「原初の混沌」が登場します。例えば、ギリシャ神話におけるカオスや、旧約聖書の創世記における「闇でおおわれた深淵の水」などが挙げられます。しかし、エジプトのヌンが特徴的なのは、それが単なる無秩序な混沌ではなく、常に生命を生み出す創造的な力と、日々の再生を司る循環的な役割を併せ持っている点です。破壊的で恐ろしい混沌ではなく、むしろ静かで、全ての生命を育む母なる存在として捉えられていた点が、エジプト神話のヌンのユニークさと言えるでしょう。
まとめ
- ヌンは古代エジプト神話における原初の混沌の海です。
- それは万物が生まれる前の「無秩序」「無限」「深淵」を象徴しています。
- ヌンは人格神ではなく、全ての創造の源となる「場」や「状態」として捉えられています。
- ヘルモポリス神話では、ヌンは創造に関わる八柱神オグドアドの一員とされています。
- 天地創造は、ヌンの水面から最初の陸地「原初の丘(ベンベン)」が出現することから始まります。
- ピラミッドやオベリスクの頂上は、この原初の丘を模したものです。
- 原初の丘に、創造神アトゥムが自らの意志で誕生しました。
- アトゥムはシュー(大気)とテフヌト(湿気)を生み出しました。
- シューとテフヌトからゲブ(大地)とヌト(天空)が生まれ、世界が形成されました。
- 太陽神ラーもまた、ヌンから生まれたとする説があります。
- 太陽は夜の間、原初の海ヌンを航行することで再生すると信じられていました。
- ヌンは世界の始まりだけでなく、日々のサイクルの基盤でもありました。
- エジプトの神殿建築は、ヌンから始まる天地創造の物語を再現しています。
- 神殿内の「聖なる池」は、原初の海ヌンを象徴するものです。
- 至聖所の高くなった床は、原初の丘ベンベンを表しています。
- 古代エジプト人の死生観において、ヌンは重要な再生の場でした。
- 死者の魂は、冥界の旅の末にヌンを通過し、復活を遂げると考えられていました。
- ヌンは「終わり」と「始まり」を繋ぐ、循環的な宇宙観の中心にあります。
- 他の神話の混沌と比較して、エジプトのヌンは破壊的ではなく、生命を育む母なる存在として描かれています。
- ヌンの概念は、エジプトの宗教、文化、建築のあらゆる側面に深く影響を与えました。

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