古代エジプトの長き歴史の中で、数々のファラオがピラミッドや神殿を築き上げました。その中でも、ひときわ異彩を放つ存在が、第18王朝の女性ファラオ、ハトシェプストです。彼女はなぜ、伝統的に男性が就くものとされたファラオの地位に就き、さらには公の場で付け髭をつけるなど男装の姿で君臨したのでしょうか。
この記事では、ハトシェプストがエジプトの頂点に立つまでの経緯、彼女の統治下でエジプトが迎えた繁栄、そして彼女が歴史の表舞台から一時的に姿を消すことになった謎について、深く掘り下げて解説します。ハトシェプストという特異な存在を理解することは、古代エジプトの王権観や社会を知る上で非常に重要です。
この記事を読むことでわかること
- ハトシェプストがエジプトのファラオとして即位するまでの複雑な背景
- ハトシェプストが男装を選んだ政治的・宗教的な理由
- ハトシェプストの統治下で行われた主要な内政・外交政策
- ハトシェプストの死後、彼女の記録が抹消されかけた経緯とその背景
ハトシェプストとは何者か:古代エジプト第18王朝の光と影
ハトシェプストの出自と正統性
ハトシェプストは、エジプト新王国時代、第18王朝のファラオであるトトメス1世の娘として誕生しました。彼女は王妃アフメスの娘であり、極めて高貴な血筋を持っていました。古代エジプトにおいて、王位継承における女性の血筋は非常に重要視されることがあり、ハトシェプスト自身も「アメン神の妻」という高い宗教的地位を持っていました。父であるトトメス1世が亡くなると、異母兄弟であるトトメス2世が即位し、ハトシェプストは彼の正妃となります。これはエジプト王家において伝統的な婚姻の形態でした。
トトメス2世の死と摂政としての実権掌握
トトメス2世は病弱であったとされ、その治世は長くは続きませんでした。彼の死後、王位は側室の息子であった幼いトトメス3世に引き継がれます。ハトシェプストは、この若きファラオの叔母であり、また義母(嫡母)という立場になりました。古代エジプトの慣例に従い、ハトシェプストはまず、幼い王の「摂政」として政治の実権を握ります。当初はあくまで後見人としての役割でしたが、ハトシェプストの野心と政治的手腕は、単なる摂政の枠に収まるものではありませんでした。
摂政からファラオへ:前代未聞の即位
摂政として政治を動かし始めてから数年後、ハトシェプストは驚くべき行動に出ます。彼女は自らファラオとして即位することを宣言したのです。これは古代エジプトの伝統において極めて異例のことでした。彼女は自らの即位を正当化するため、神託を利用したとされています。特に、彼女の父トトメス1世が生前に彼女を後継者として指名した、あるいは最高神アメンが彼女の即位を望んだといった神話を流布させました。ハトシェプストは、トトメス3世を排除するのではなく、「共同統治者」という形で彼を傍らに置きつつ、実質的な最高権力者としてエジプトに君臨することになります。
男装のファラオ:ハトシェプストの統治と戦略
なぜハトシェプストは男装を選んだのか?
ハトシェプストの最も有名な特徴は、彼女が公の場で男性のファラオの姿、つまり男性の衣服をまとい、儀式用の付け髭をつけ、男性の称号を用いていたことです。これは、単なる個人的な趣味や性別を超越したかったという単純な理由ではありません。古代エジプトにおいて「ファラオ」という存在は、単なる政治的指導者ではなく、神聖な秩序(マアト)を維持する神格化された存在でした。そして、その役割は伝統的に男性のものと強く結びついていました。ハトシェプストは、自らが正統なファラオであることをエジプト全土に示すため、あえて男性のファラオとしての図像学(イコノグラフィー)を採用する必要があったのです。彼女は女性としての側面を完全に捨てたわけではなく、碑文などでは女性形を用いることもありましたが、公的な「ファラオ」としては男性として振る舞うことを選んだのです。
平和と繁栄をもたらした内政
ハトシェプストの治世は、約22年間に及びましたが、その多くは大規模な戦争ではなく、内政の充実に力が注がれました。彼女の統治下で、エジプトは経済的な繁栄期を迎えます。ハトシェプストは国内の神殿の修復や増築に力を入れ、アメン神団を中心とする神官たちの支持を確固たるものにしました。また、彼女は前王朝の混乱期に荒廃した国土の復興にも努め、エジプト国内の安定に大きく貢献しました。大規模な軍事遠征こそ控えたものの、エジプトの国力は彼女の時代に大きく伸張したと考えられています。
伝説のプント国遠征
ハトシェプストの統治における最大の功績の一つが、「プント国」への大規模な交易遠征です。プント国は、現在のソマリアやエリトリア沿岸にあったとされる、乳香や没薬、金、黒檀、珍しい動物などを産出する「神々の国」として知られていました。ハトシェプストは、大型船団を編成して紅海経由でプント国へ派遣し、大量の貴重な物資をエジプトにもたらしました。この遠征は、軍事的な征服ではなく、平和的な交易によるものであり、その成功はハトシェプストの権威をさらに高めることになりました。この遠征の様子は、彼女が建設した葬祭殿の壁画に詳細に記録されています。
ハトシェプストの遺産と歴史からの抹消
壮麗なるハトシェプスト女王葬祭殿
ハトシェプストが後世に残した最も有名な遺産は、ルクソール西岸のデイリー・エル=バハリに建設された壮麗な葬祭殿です。この神殿は、断崖絶壁を背景にした3層のテラス構造という、古代エジプト建築の中でも極めてユニークなデザインを持っています。設計を担当したのは、ハトシェプストの寵臣であったとされるセンエンムトという人物です。この葬祭殿は、ハトシェプスト自身の葬儀のためだけでなく、アメン神や他の神々を祀るための神殿でもあり、彼女の神聖さと権力を象徴するモニュメントとなっています。壁面にはプント国遠征の様子や、彼女の即位の正当性を訴える神話などが詳細に刻まれています。
建築と芸術の黄金時代
ハトシェプストの治世は、建築や芸術が花開いた時代でもありました。彼女は葬祭殿以外にも、カルナック神殿に巨大なオベリスク(尖塔)を奉納するなど、エジプト各地で活発な建築活動を行いました。現存するハトシェプストのオベリスクは、当時のエジプトの石工技術の粋を集めたものであり、その大きさは圧巻です。また、この時代の彫刻は、伝統的なエジプト美術の様式を踏襲しつつも、繊細さや優雅さを感じさせる独自の様式を発展させました。ハトシェプスト自身の像も多く作られましたが、それらは男性ファラオとして理想化された姿と、女性としての特徴を微妙に残した姿の両方が存在します。
なぜハトシェプストの記録は破壊されたのか?
これほどまでにエジプトの繁栄に貢献したハトシェプストですが、彼女の死後、その名は歴史から抹消されかけることになります。彼女の共同統治者であり、彼女の死後に単独のファラオとなったトトメス3世は、その治世の後半になってから、ハトシェプストの名前や姿が刻まれた記念碑や神殿の壁を組織的に破壊し始めたのです。ハトシェプストの像は打ち砕かれ、彼女の名前はカルトゥーシュ(王名枠)から削り取られました。なぜトトメス3世がこのような行動に出たのか、その正確な理由は未だに議論が続いています。個人的な怨恨説、女性がファラオであったという「異常」な状態を正し、伝統的な秩序を回復しようとした政治的判断説など、様々な仮説が提唱されていますが、いずれも決定的な証拠はありません。しかし、この「ダナティオ・メモリアエ(記憶の破壊)」によって、ハトシェプストの存在は長きにわたりエジプトの歴史から忘れ去られることになりました。彼女の功績が再評価されるのは、近代の考古学者たちによって葬祭殿が発掘され、碑文が解読されてからのことでした。
まとめ:ハトシェプストと古代エジプトの謎
- ハトシェプストは古代エジプト第18王朝の女性ファラオである。
- 彼女はトトメス1世の娘として高貴な血筋を引いていた。
- 異母兄弟のトトメス2世と結婚し、王妃となった。
- トトメス2世の死後、幼いトトメス3世の摂政となった。
- ハトシェプストは摂政の地位に満足せず、自らファラオとして即位を宣言した。
- これは古代エジプトの伝統において極めて異例のことであった。
- 即位を正当化するため、アメン神の神託など神話を利用した。
- トトメス3世とは共同統治という形をとった。
- ハトシェプストは公の場で男性ファラオの衣装や付け髭を身につけた。
- 男装は、ファラオという神聖な役割が伝統的に男性のものとされていたためである。
- 彼女は自らの権威を視覚的に示すために男性の図像を用いた。
- ハトシェプストの治世は約22年間に及び、エジプトは平和と繁栄を享受した。
- 大規模な軍事遠征よりも、内政や建築事業に力を注いだ。
- 有名な功績として、プント国への平和的な交易遠征がある。
- プント国遠征により、乳香や没薬など貴重な品がエジプトにもたらされた。
- 彼女の最大の建築物は、デイリー・エル=バハリの壮麗な葬祭殿である。
- 葬祭殿は、ハトシェプストの権力と神聖性を示すモニュメントである。
- カルナック神殿へのオベリスク奉納など、他の建築活動も活発であった。
- ハトシェプストの死後、トトメス3世によって彼女の記録は組織的に破壊された。
- 神殿や記念碑からハトシェプストの名前や像が削り取られた。
- この「記憶の破壊」の正確な動機は、現代でも議論が続いている。
古代エジプトの歴史を学ぶことは、現代の私たちに多くの示唆を与えてくれます。ハトシェプストの物語に触れ、少しでも知的好奇心が満たされたなら幸いです。


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